話題になってたから一度観なきゃと思って何年も。でもあのビジュアルが。ためらっていたわけです。
勉強しなきゃと、とりあえず一話30分。とんでもなくアートな作品でした。シュールレアリスム爆発してる。
徹夜してイッキ観。
一例を挙げれば、
OP含めてキャラクターが右から左にしか移動しないのに気づいた。だからEDでまどからしきシルエットが唯一右に進むのに刮目、他の止まっている少女達を追い越して、でもその先には…。うわぁ!!!でした。
心理学的には左側は過去、死の方向。右側は未来、生きる方向。
ひとは過去を思い出すとき眼球は左側を向く。未来を作るとき右側をみる。死んだ恋人オフィーリアを描いた絵はほぼすべて河を左側に流れてゆく。
EDで暗示されている希望の先にある悲劇。本編ですべてが加工の静的な死の世界に進んでゆく不安感。
そんな数々の仕掛けに満ちた作品でした。
結局このアニメは現代の私達の生き方の話だった。
現代社会へののっぴきならない告発、批判。社会派な作品。
生産効率が上がってしまえば、私達の活動はどんどんと生きるためからより良く生きるためになる。
ニートも引きこもりも出生率の低下も、実はそんな単純なこと。
生きてゆくのかのが楽になってきた時にでてくる副作用。
そんな社会の中でよりよく生きようとすれば、みんな魔法少女的な何かを目指すしかなくなる。
豊かな世界でも、みんなに喜んでもらえる人間に。
でも、
そこにはインキュベータきゆうべえのような、それを利用してアンフェアな不当な利益を得ようとする奴等も群がって来るわけで。(インキュベータって私の耳にはずっとインキュバス:男性形夢魔と聞こえて仕方なかった(^^))
この社会で良い人として生きようとする全ての人に待ち受けている悪夢の話。
(だからまどかの描いた他人に見せられない魔法少女の絵が切なくて切なくて。ちと泣きそうに。これが恥ずかしい夢になるこ文明の方が間違っているだろうと悔しくて)
どうすれば夢を餌にする悪人と戦うのかの話。
ちとアメリカンニューシネマの「ラストカーボーイ」を思い出したりしました。(とはいえ観なきゃリストに入りっぱなしで未だ観てないけれど)
この作品まどか☆マギカの中では最後はインキュベータにも勝利するのだけれど、
でも、
私にはそれは説得力なかった。
最後のまどかの方法は、現実には出来ない。
現実のインキュベータはそんなに優しくは無い。そんなに弱くは無い。
作者は絶望を隠したのかも。
しかし、私はそこに有効な手はあると思う。
フリーソフトウェアファウンデーションは上手くいった。オープンソースも、コモンセンスライセンスも、共産主義対資本主義の馬鹿馬鹿しい思想対立を見事に迂回して幸福を目指しているように思える。
「まどか☆マギカ」よありがとう。
うん、この先やってみるよ。
たぶんそう思ったのは私だけじゃない。
ヌーベルバーグもアメリカンニューシネマもその後のことども私達は覚えている。
怒りも無垢も愛もそれだけでは勝てないことも学んでいる。
実は巧幻想や仮想の価値観と巧妙に戦う方法も有ることに気づいている。
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