2014/12/05
人工天使 のこと
「人工天使」という言葉に出会ったのは19世紀の詩だった。
あけすけに言えば娼婦のこと。
その言葉に出会って救われたなぁ。
そう天使は人工で作れるのだ。
芸事は天使を作る作業なのだ。人が人を救えるのだ。と
最近いろいろなことが引っかかってきて「人工天使」についてよく考えます。
特に役者さんたちは観客にとっての人工の天使を体現しなくちゃいけない方々、
その苦労も含めて尊敬してます。
もちろん人工天使を作る作業は裏方さん達の汗にもかかっているわけです。わたしもその誇りを担いたいなぁと思います。
編集しているとねその人工の天使ぶりをどう伝えようかと悩むわけです。
そして人工天使の誇りってものはあるよなぁとも。
だから映画を観ようと思うし、作ろうとも思う。それは天使に救われることでもあるのだから。
自分を嫌うことも実は必要なときはあるだろうし、また救われることが必要なときもある。
だから人は天使を思い描いて、気づかぬうちに作り上げて、生み出している。
人工天使はいつまでも人の傍に居てくれる。
================================
現在制作中の映画のページ
2015年初公開予定です(^o^)/
シナモンの最初の魔法 First magic of Cinnamon Cookie
クラブのジャック~やすらぎの銃弾 The jack of club
この間48時間映画祭で作った短編「ロープ」の予告編
後半上映の観客賞第三位いただきました。感謝(^o^)/
また上映してゆきます(^o^)/
2014/08/12
「宇宙遊星間旅行」届いたぁ
数日前に再発売されていたことに気づいて、思わず注文した本。
届きました。
「宇宙遊星間旅行」(作・中江嘉男、画・上野紀子)
��0年ぶりの復刊らしいです。
これが家に来ると思うだけでここ数日どきどきしてました。
美しい恋愛の話。想いの話。体の話。性の話。光の話。星の話。命の話。時間の話。空間の話。
多重にさまざまなものが織り込まれて、
宇宙の初めから今までの時間と空間の中にひとつぽつんとある本。
これが家の本棚にあるのはやっぱり不思議な気がします。
実はこの作者さんたちの「鏡の淵のアリス」という文字のない絵本にどこかで出会えることを願っています。
市の図書館の書庫に一冊あるのは知ってて10年に一度くらい借り出して再会するのですが、
あの一冊が何かで無くなってしまったらもう会えなくなるかもしれない不安があって…。
あの本に会えなくなったら人生損するよなぁと。
まま、今は「宇宙遊星間旅行」をゆっくりと何度も味わいます(^o^)/
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2014/08/09
行き場の無いプロット
Sony Vegas - Wikipediaの前でうんうん唸っている夏でございます。
ちょっと気分転換。
これ、
だいぶ前に書いたプロットです。
ある晩に電話がかかってきて、
「明日リハ初日なんだけれど、実はまだシナリオが上がってこない!里見八犬伝で何かプロットでいいんで今夜中に書いてもらえないでしょうか?」
という無茶な内容。
んーたぶんまた48時間映画祭が印象に残ってはったんだろうなぁ…。
とりあえず内容問わないことだけ確認して、
挑戦してみる。
とはいえ八犬伝なんて
辻村ジュサブローや坂本九の「新八犬伝」の記憶とかあとは深作欣二の「宇宙からのメッセージ」ぐらいしか覚えてないや。薬師丸ひろ子の映画は覚えてないしなぁ。そういや本棚には子供向けの新書版があったけれど、今から読むと間に合わないかぁ。
ネットにお世話になって南総里見八犬伝 - Wikipedia、滝沢馬琴さんの天才さに圧倒される。
エイッヤ!と書いて、電話から2時間後に送信。
いい修行になりました。特訓です(^^)/
もう本番も無事に本来のシナリオで終わったし、解禁のお墨付きももらったので、行き場の無いこのプロットというか書きかけシナリオというか、これをちゃんと人前に出してあげたくなったのです。
お目汚し御免。
��===========================
ストーリープロット(南総里見八犬伝を下敷きに)
衣笠竜屯
○里見の里、平和の祭
��伏姫が納める里見の里が、玉梓の呪いによって壊される。)
平和を祝う祭りに玉梓の怨霊が現れて、里全体を呪う
玉梓の怨霊「この平和はためにわらわは殺された。虫けらどもめ末代まで呪ってやる!」
��伏姫は玉梓の怨霊を鎮めようと対峙するが、玉梓は伏姫の命を奪う、伏姫は3っつの玉を世界に投げる)
対峙する伏姫と玉梓の怨霊
伏姫 「ふしてお願いいたします。
わが国もおん国もいくさが終わりようやく平和になったのです。どうかお恨みはお忘れください。
もしも怒りが収まるのなら、我が身を差し出しましょう。玉梓さまの呪いをうけて地獄で永劫苦しみましょう!」
玉梓の怨霊「我が父はそれと同じ事をお前の父に申したわ。わが身の代わりにどうぞ娘だけはお助けくださいと。
じゃがお前の父はどうしたか!わらわをどうしたか!怨霊と成り果てたわらわをとくと見よ」
伏姫 「そのようなはずはありませぬ!」
玉梓の怨霊「ふん!…この里はわらわが貰い受ける!この偽り平和を破り地獄の里にしようぞ。
お前に生死に関わらず。お前の命などなんの価値も無い!
…が、そなたにとっては唯一の命じゃ。わが身は惜しかろう?
ほれ、命乞いをしてみよ。これよりわらわの畜生として生きるのなら考えてやらんこともないわ」
伏姫、玉梓の怨霊を見て「…では、お殺しください」
玉梓の怨霊「ゆうたな!簡単に楽にはせぬぞ」
玉梓、伏姫をいたぶって殺す。(ダースベーダーの念力のような感じで)
伏姫 「希望を!」
��つの玉が伏姫から飛び出し飛んで消える。
��里見の里は玉梓が納める地獄となる)
ナレーションと赤い照明かや音響効果で。
○数年後、里見の里
やがてその里見の里に一人の青年(忍者)が現れる。
玉梓への生贄とされかけた里の娘を助ける
玉梓の部下をやっつける。
が他の部下たちに囲まれる。
そのとき僧侶が現れて助太刀、二人でやっける
○撃退後、三人の会話
娘、忍者、僧侶
僧侶 「旅の人。なぜここに来た?ここはもう半分がた地獄じゃぞ」
忍者 「なぜだろう、ただ。これがここへ導いた」
忍者、玉を出す
僧侶 「(笑って)お前もか!」
忍者 「ん?」
僧侶 「ほれ、わしもじゃ」
僧侶も玉を出す。
○里見の里、地獄の祭
おどろおどろしい村祭り。(最初の平和な村祭りイメージとは逆に)
玉梓の怨霊が現れ、みながひれ伏す。
伏姫を復活させ、また殺そうとする。
忍者、僧侶、現れて玉梓に戦いを挑む、しかし強い玉梓。二人追い詰められる。
玉梓 「ふふふ、伏姫が死と引き換えに投げた玉の数は、いくつじゃった?後一つ足りなんだのう!
先にお前らから殺しておいてやろう。そうすればすべての玉がそろうことは無いからの!」
玉梓、二人にとどめをさそうとする。
娘 「いえ、玉はそろっております。そろっております!」
娘、自分の玉を出して掲げる。
玉梓、悲鳴をあげる。
娘 「希望を」
忍者 「安らぎを」
僧侶 「平和を」
そして伏姫が起き上がり。
伏姫「幸福を!」
玉梓の怨霊、消える。
伏姫息絶えている。
里見の里に、正常な光が戻る。
○エピローグ 里見の里の竹林
僧侶 「それがもう十年も前のことじゃ。
さて、あの怨霊と化した姫は、本当に滅ばねばならなかったのか。
あの後わしはそればかりが気になった」
僧侶ふところからあの三つの玉を出す。
僧侶 「あれから10年もかかったが、今日!今!ここで!やっ!(気合をいれる声)」
玉梓が竹林から現れ復活する。がっと客席を見て、
…玉梓にっこり笑う。
そして竹林の方においでおいでする。
竹林の中から伏姫が現れる。
伏姫と玉梓抱きあう。お互い微笑む。
玉梓、竹林に向かう。
僧侶 「玉梓が姫よ、どうぞみ国へ帰られよ。長い旅でありましたな」
伏姫、竹林へ向かう。
僧侶 「我が伏姫よ、どうぞこれからも我々を見守りたまえ。我々の幸福を。ありがとうございました。…母者よ。」
僧侶、一礼する。
玉梓、伏姫、竹林の奥に消える。
END
2014/07/03
節目だなぁ
今日の写真はロケハンの時に佃撮影監督が撮ってくれたものです(^o^)/
なんだかテレビでは「集団的自衛権」を延々やってる。
眺めていると911テロの時やオウム真理教や福島原発水素爆発のときとおなじく時代の変わり目をみているような気もしてきてる。
まあ床屋政談こそ民主主義の血ではなかろうかとも思うので書いてみる。
これやっぱり神学論争だよね。
ピンの上で何人天使が踊れるかとか、異教徒に人権は在るのか、神がいるのになぜ悪魔が存在するのかとかと同じで、
外から眺めると何でそんな事を真剣に考えてしまうのって。
”集団的自衛権”は 戦争に巻き込まれる のか それとも戦争を遠ざけるのか。
そんなもん、どっちの場合もあるだろうとしか思えない。
”個別的自衛権”も”集団的自衛権”も実は政治的や軍事的な戦略・戦術として区別なんて出来るのか?と。
誰を狙ったかって動機でもないだろうし、結局はどんな風に自分に被害がかかるかどうかしかなく、普通それは単に”自衛権”と呼ぶんじゃないか。
問題が起こった場合にいかに全体の被害を少なく抑えるか。
実はそれが平和(と戦争)の問題なんだと思う。
不当な行動の被害を防ぐために個人の復讐の連鎖にまかせると拡大増殖するので、
国がルールの下に処罰して終わらせる方が全体の被害は少なくなるのと同じように。
もちろん自衛が過剰な場合も自衛が不足な場合もある。
だけれど、その問題を自衛が単独か集団かで判断するのが合理的とはまったく思えない。
どう考えても単独自衛だって過剰に破壊する可能性もあるだろうし、集団的自衛がより破壊性の少ない選択肢になる可能性もある。
要は状況しだいでどちらがより双方の全体の被害が少ないかを判断する仕組みと実行する仕組みを作るかってのがキモだろうに。
がなぜか”集団”と”個別”にとてつもない意味があるように振舞っている議論。
このものの捕らえ方に規制された神学的な論争。
他のパラダイムはなぜか提出されない議論
なんだかカルト教団の脱洗脳のドキュメントでも見ているようにも思える。
神学的論争って現代だと一番激しくされているのは、カルト教団からの離脱のときだろうな。
さて、
実はこの騒ぎで憲法改正への心理的な壁が崩れてきた気がしてます。
つまり解釈での運用に批判を集めることで、今までタブーとして触れることさえ拒絶してきた部分を理性で検討できるようになってきてる。そういう論調が多く目に付く。
「憲法の解釈で運用するのはまずい!」って批判をちょっと先に進めると「やるなら憲法改正がもっと良い手段」という正論が出てくる。
目的である自衛力の強化自体に対する批判は少ない。天災や周辺国の拡張主義のゴタゴタがあって今の憲法では対応できなくなってきているのは共通認識になりつつある。
さてさてそこで、
いままで憲法改正、特に9条改正にはかなり恐怖を感じていたんじゃなかろうか。
冷静に考えたら、9条の改正で交戦権を認める方向も逆に交戦権にさらに制限する方向もどちらも二つあるのに、なぜか9条改正を考えるたびに第二次大戦のイメージが恐怖と共に膨らむように心理的にプログラミングされてなかったっけ。
この恐怖のやわらげ方、回避方法、
これって逆洗脳の手法のような気がする。
不合理な洗脳下にある人に合理的な説得をしても受け入れられず、むしろ彼の恐怖の引き金を引いてしまう。それがさらに不合理な反応や信念を強化する結果になってしまい、逆効果になる。
むしろその不合理な体系の中に一度入ってそのおかしな体系上で対話と説得と議論をして彼の中に沸き起こる恐怖をいなしつつ、少しずつ常識的な感覚、感性に気づかせてゆく。
もちろんこの場合、常識的や社会性も実は一種の幻想であって、より合理的な幻想で再洗脳することで破滅的な幻想から離脱させるという自覚がないといけない。正常・異常、正しい・間違いなどで区別していると、再洗脳が成功してもまたすぐに別の破滅的な幻想に上書きされてしまう。
ってカルト離脱の方法論。
なんだか今日本中で聞く議論ってこの再洗脳のように聞こえてきて。
そりゃ感情的な嵐や恐怖も吹き荒れるよなぁと思う。
たぶん第二次大戦後の再編成で、
なまなましい戦争への恐怖を使って自己否定をセットして、新しい価値観をプログラミングしたんだよなぁ。
そういう洗脳手法が確立されたのが第二次大戦の頃じゃなかったか。
催眠術にかける時と同じにショックを与えるのとコントロール不能を自覚させるのと。それをもっと強烈な形で長時間繰り返して、刻み付けてゆく洗脳。
えーと主語を書いてなかったね。実はわざとぼかしてました。ごめんなさい。
日本でもドイツでもいいし世界全体でもいいし私個人でもあなた自身でもいいしアメリカ人だって当てはまると思う(^o^)/
なぜヒトラーや国家社会主義なんたら党は悪の権化のイメージなんだろう。
毛沢東やスターリンや様々な虐殺者もっと言えば南米や北米の原住民を駆逐した者たちには、なぜ悪の権化のイメージがついてないのだろう。
戦争前ヨーロッパでユダヤ人を差別してたのはドイツだけだったのか?
やっぱり100年、1000年単位で大雑把に見ると日本の明治維新から大東亜戦争は人種解放運動に見える。
日本人とか黄色人種とか有色人種とかどこで区切るのかはあれどね。
公民権運動で人種差別と戦ったキング牧師の「I Have a Dream」演説が1968年。
その27年前に日米戦争、1941年。
その時代の有色人種国家が白人国家連合と近代兵器で戦争するってのが大きく見るとどういう風に見えるか。
しかし公民権運動や人種差別撤廃の遥か以前の日米戦争時になぜか不思議なことにアメリカが有色人種を差別しなかったイメージになってやしないか。日本での世界史上最大の無差別爆撃や原爆投下をヨーロッパ戦線ではしなかったね。
国や集団を個人と同じように考えて精神分析的に見るやりかたってのがあって、
それで考えて見ると、
今の日本はある種カルト的な(恐怖と自己否定を使った)不合理な反応から、離脱しようとしているのかも。
今はそのための再洗脳中ということになるのかも。
願うのはその再洗脳でプログラミングされる価値観や反応がどうか合理的なものであってほしいということ。
私は平和が大好きです。
だからこそ
平和の反対語が戦争だけってなってるのは歪んでると思うわけです。
そこには犯罪も天災も騒乱もテロも虐殺も紛争も侵略も暴動も、そしてたぶんイジメもぜんぶ平和を壊すものであるわけです。
平和とはすべての人がある程度は幸福な状態なんじゃなかろうか。それぞれが幸福か不幸かを自分で選べる状況が整っている状態。
だから
例え国際ルールにのっとった正式な戦争状態が無かったとしても、
例えば誰かが理不尽に扱われるのを毎日当たり前に目にするような社会は断じて平和ではないだろうと思うのです。
どうかこれからの価値観が恐怖と自己否定を源としない合理的なものになってゆきますように。
やっぱり9条は「戦争の放棄」ではなく、「平和を維持する義務がある」であってほしいな。
戦争の放棄では平和の実現にはまったく足りない。
なんかもうテレビの論調見てて腹たってきたんで、
なぜかと考えたら、
たぶん自分の恐怖を克服中だった。
これ世の中の変わり目ですね、きっと
なんだかテレビでは「集団的自衛権」を延々やってる。
眺めていると911テロの時やオウム真理教や福島原発水素爆発のときとおなじく時代の変わり目をみているような気もしてきてる。
まあ床屋政談こそ民主主義の血ではなかろうかとも思うので書いてみる。
これやっぱり神学論争だよね。
ピンの上で何人天使が踊れるかとか、異教徒に人権は在るのか、神がいるのになぜ悪魔が存在するのかとかと同じで、
外から眺めると何でそんな事を真剣に考えてしまうのって。
”集団的自衛権”は 戦争に巻き込まれる のか それとも戦争を遠ざけるのか。
そんなもん、どっちの場合もあるだろうとしか思えない。
”個別的自衛権”も”集団的自衛権”も実は政治的や軍事的な戦略・戦術として区別なんて出来るのか?と。
誰を狙ったかって動機でもないだろうし、結局はどんな風に自分に被害がかかるかどうかしかなく、普通それは単に”自衛権”と呼ぶんじゃないか。
問題が起こった場合にいかに全体の被害を少なく抑えるか。
実はそれが平和(と戦争)の問題なんだと思う。
不当な行動の被害を防ぐために個人の復讐の連鎖にまかせると拡大増殖するので、
国がルールの下に処罰して終わらせる方が全体の被害は少なくなるのと同じように。
もちろん自衛が過剰な場合も自衛が不足な場合もある。
だけれど、その問題を自衛が単独か集団かで判断するのが合理的とはまったく思えない。
どう考えても単独自衛だって過剰に破壊する可能性もあるだろうし、集団的自衛がより破壊性の少ない選択肢になる可能性もある。
要は状況しだいでどちらがより双方の全体の被害が少ないかを判断する仕組みと実行する仕組みを作るかってのがキモだろうに。
がなぜか”集団”と”個別”にとてつもない意味があるように振舞っている議論。
このものの捕らえ方に規制された神学的な論争。
他のパラダイムはなぜか提出されない議論
なんだかカルト教団の脱洗脳のドキュメントでも見ているようにも思える。
神学的論争って現代だと一番激しくされているのは、カルト教団からの離脱のときだろうな。
さて、
実はこの騒ぎで憲法改正への心理的な壁が崩れてきた気がしてます。
つまり解釈での運用に批判を集めることで、今までタブーとして触れることさえ拒絶してきた部分を理性で検討できるようになってきてる。そういう論調が多く目に付く。
「憲法の解釈で運用するのはまずい!」って批判をちょっと先に進めると「やるなら憲法改正がもっと良い手段」という正論が出てくる。
目的である自衛力の強化自体に対する批判は少ない。天災や周辺国の拡張主義のゴタゴタがあって今の憲法では対応できなくなってきているのは共通認識になりつつある。
さてさてそこで、
いままで憲法改正、特に9条改正にはかなり恐怖を感じていたんじゃなかろうか。
冷静に考えたら、9条の改正で交戦権を認める方向も逆に交戦権にさらに制限する方向もどちらも二つあるのに、なぜか9条改正を考えるたびに第二次大戦のイメージが恐怖と共に膨らむように心理的にプログラミングされてなかったっけ。
この恐怖のやわらげ方、回避方法、
これって逆洗脳の手法のような気がする。
不合理な洗脳下にある人に合理的な説得をしても受け入れられず、むしろ彼の恐怖の引き金を引いてしまう。それがさらに不合理な反応や信念を強化する結果になってしまい、逆効果になる。
むしろその不合理な体系の中に一度入ってそのおかしな体系上で対話と説得と議論をして彼の中に沸き起こる恐怖をいなしつつ、少しずつ常識的な感覚、感性に気づかせてゆく。
もちろんこの場合、常識的や社会性も実は一種の幻想であって、より合理的な幻想で再洗脳することで破滅的な幻想から離脱させるという自覚がないといけない。正常・異常、正しい・間違いなどで区別していると、再洗脳が成功してもまたすぐに別の破滅的な幻想に上書きされてしまう。
ってカルト離脱の方法論。
なんだか今日本中で聞く議論ってこの再洗脳のように聞こえてきて。
そりゃ感情的な嵐や恐怖も吹き荒れるよなぁと思う。
たぶん第二次大戦後の再編成で、
なまなましい戦争への恐怖を使って自己否定をセットして、新しい価値観をプログラミングしたんだよなぁ。
そういう洗脳手法が確立されたのが第二次大戦の頃じゃなかったか。
催眠術にかける時と同じにショックを与えるのとコントロール不能を自覚させるのと。それをもっと強烈な形で長時間繰り返して、刻み付けてゆく洗脳。
えーと主語を書いてなかったね。実はわざとぼかしてました。ごめんなさい。
日本でもドイツでもいいし世界全体でもいいし私個人でもあなた自身でもいいしアメリカ人だって当てはまると思う(^o^)/
なぜヒトラーや国家社会主義なんたら党は悪の権化のイメージなんだろう。
毛沢東やスターリンや様々な虐殺者もっと言えば南米や北米の原住民を駆逐した者たちには、なぜ悪の権化のイメージがついてないのだろう。
戦争前ヨーロッパでユダヤ人を差別してたのはドイツだけだったのか?
やっぱり100年、1000年単位で大雑把に見ると日本の明治維新から大東亜戦争は人種解放運動に見える。
日本人とか黄色人種とか有色人種とかどこで区切るのかはあれどね。
公民権運動で人種差別と戦ったキング牧師の「I Have a Dream」演説が1968年。
その27年前に日米戦争、1941年。
その時代の有色人種国家が白人国家連合と近代兵器で戦争するってのが大きく見るとどういう風に見えるか。
しかし公民権運動や人種差別撤廃の遥か以前の日米戦争時になぜか不思議なことにアメリカが有色人種を差別しなかったイメージになってやしないか。日本での世界史上最大の無差別爆撃や原爆投下をヨーロッパ戦線ではしなかったね。
国や集団を個人と同じように考えて精神分析的に見るやりかたってのがあって、
それで考えて見ると、
今の日本はある種カルト的な(恐怖と自己否定を使った)不合理な反応から、離脱しようとしているのかも。
今はそのための再洗脳中ということになるのかも。
願うのはその再洗脳でプログラミングされる価値観や反応がどうか合理的なものであってほしいということ。
私は平和が大好きです。
だからこそ
平和の反対語が戦争だけってなってるのは歪んでると思うわけです。
そこには犯罪も天災も騒乱もテロも虐殺も紛争も侵略も暴動も、そしてたぶんイジメもぜんぶ平和を壊すものであるわけです。
平和とはすべての人がある程度は幸福な状態なんじゃなかろうか。それぞれが幸福か不幸かを自分で選べる状況が整っている状態。
だから
例え国際ルールにのっとった正式な戦争状態が無かったとしても、
例えば誰かが理不尽に扱われるのを毎日当たり前に目にするような社会は断じて平和ではないだろうと思うのです。
どうかこれからの価値観が恐怖と自己否定を源としない合理的なものになってゆきますように。
やっぱり9条は「戦争の放棄」ではなく、「平和を維持する義務がある」であってほしいな。
戦争の放棄では平和の実現にはまったく足りない。
なんかもうテレビの論調見てて腹たってきたんで、
なぜかと考えたら、
たぶん自分の恐怖を克服中だった。
これ世の中の変わり目ですね、きっと
ラベル:
雑記こころのうち
2014/06/07
おひさしぶりでございます
お久しぶりでございます。
舌炎が出来たり、ハードディスク落っことして壊したり、DVDドライブが二層ディスク読めなくなるほどヘタってしまったり、かるく偏頭痛がぶり返したりしています今日この頃です。
おかげさまで毎週のようにどこかで自作が上映されたり、とても嬉しい事も起こっている日々でもあります。
制作中の新作は三本ともすくすく育っています。
今撮影中のは来週の撮影がいろいろ問題もありますけれど、なんとか乗り越えようと全力です。
いくつか面白いお誘いも、ワクワクしつつお話を聞かさせていただいております。
その辺はFacebookの
衣笠 竜屯
や
衣笠竜屯の活動写真制作ページ
などなどで(^o^)/
最近「男はつらいよ」シリーズにはまっております。
正確には山田洋次監督もしくは脚本作品にかもしれません。
たまたま見直した「幸せの黄色いハンカチ」。
健さん演じる謎の男の過去のエピソードが始まるのがちょうど映画の真ん中だと気づいた時からかもしれません。
あの男の物語は後半のみで語られている。
ほかにも例えばファーストシーンの武田鉄矢演じる若い男が振られて一人悶々としている所、そしてラストがその男が恋人と二人で去って行く所になっている。
構造がはっきりしているなぁと。
大きな枠組みがあって、真ん中あたりで本当の物語に直面して、ラストでクレッシェンドして全ての枠が閉じる。
そこからいろいろ観はじめて「家族」「故郷」「遥かなる山の呼び声」「同胞」「学校」そして「男はつらいよ」シリーズに。
本当に山田洋次の構成は揺るがない。
とても華麗な物語の配置。
で「男はつらいよ」
最初はやっぱり舐めてたかも。セットで大量生産した感じを。
が、これが何本も観てゆくと凄い。
今たぶん半分も見てないぐらいですが、それでも十数本、何一つとして同じお話がない!
半年に一本のペースで量産して、さらに合間に他の映画も撮ってて、この密度はすごいなぁと。
物語の構造は一つ。
だけれどもそこに流れる物語は毎回まったく違う。
それは故郷を懐かしむ男の物語だったり、妹を心配しているダメ兄の物語さったり、息子の物語だったり、甘えたいのに甘えられない物語だったり、家庭に落ち着こうと願う物語だったり、恋をするけれど相手から逆に告白されたとたん逃げてしまう話だったり。
そう、例えば中年男と中年女が雨の中に相合傘で無言で帰るたった3カットが90分の映画のクライマックスとして見事に機能していたり。
こんな尖んがった映画シリーズもないなぁと思う。しかも48本。
お話の構成が見事に機能して美しい。
観ているうちに渥美清さんの演技が本当に凄いことに気づいてゆく。
あまりに上手くて天才で、一見何にも演じていないように見えてしまう役者さん。
演技での視線の動きが凄い。何を見るのかが一部の隙もなくはっきりしている。
その場にその役が居るとき何を見て何を聴いて何を感じるのかがきっちり繋がっていく。
何かをしようとはしない。あくまでもあくまでもその人がそこに居たら何を受け取るのかを丁寧にシュミュレートしてゆく。
たとえアップの視線の先が仮想空間であっても揺るぎもしないで仮想の相手を見る。
画面の外に”有る”はずのものは撮影現場ではたいてい”無い”のです。
ある相手に驚いて、おもわず横に居る男の表情を伺って、またその隣の人物に助けを求めてしまって、それが恥ずかしくなってが目を伏せてしまい、それでも意地を見せて相手をまっすぐ見て一瞬裏返ってしまいがちになる声で怒鳴る。
なんてのが普通に一瞬に起こっている。たとえ相手がみんな画面の外になってようとも。
こんな流れでこんなスピードでやったら自然すぎて演技に見えなくなってくる。
一見では気づかれないぐらい深い技術。すごいよなぁ。
そんなこんなで「男はつらいよ」を最初っから観ている最中です。
さて、再来週の撮影、どう立て直そう…。
ラベル:
雑記こころのうち
2014/03/17
「ドラキュラ・アンドロイドの休日」上映
衣笠竜屯が監督した作品
「ドラキュラ・アンドロイドの休日」
が
シネドライブ2014で上映されます。
グループ N です。
グループNの上映場所時間は
3月21日 17:00~ 天劇キネマトロン(大阪梅田中崎町)地図
3月22日 20:30~ プラネット+1(大阪梅田中崎町)地図
3月23日 18:00~ イロリムラ(大阪梅田中崎町)地図
3月23日 21:00~ シアターセブン(大阪十三)地図
です
詳しくはシネドライブ2014の公式ページで
http://cinedrive2014.businesscatalyst.com
たぶん私は20日のオープニングイベントにも23日のクロージングイベントも含めて、
上映会場には居ると思います。
48時間で作った短編映画。なかなか濃い中身になりました。
よろしくお願いいたします。
映画を作ると撮影監督と音楽監督とは映画の手触りや感触の話をすることがおおいのですが、
今回は
気鋭の天才佃撮影監督にはエッジの利いた画をがまんしてぇください!手持ちが出来るようになってきた時代ぐらいの低予算映画のつもりでぇ。
音楽監督の玄人な職人川人・佃ユニットにはケレン味利かせてくだぁさい。ハマープロダクションの映画のつもりでぇ!
などとわめいておりました。
��8時間で映画を作るコンテストで
さらに無茶な枷をお願いして、
でもとんでもないお仕事をしていただきました。
あまりに完璧すぎて自然だけれど、
この仕事すごいよなぁとオーダーした監督でさえ唖然陶然でございます(^o^)/
=================
Holiday of Dracula Android
ドラキュラ・アンドロイドの休日
出演:河口彩華/武 洋一/竹中 実/舛本 昌幸
制作:佐野洋子 撮影:佃光 音楽:畑裕也/川人千慧 脚本:浦山陽子(金森翔/木寺伸一/舛本昌幸/西海敬介/衣笠竜屯) 録音:木寺伸一/南野佳嗣 CG:木寺/伸一 編集・音響:衣笠竜屯 助監督:金森翔/竹中実 大人の映研部 神戸活動写真倶楽部港館 監督:衣笠 竜屯
2014/01/24
映画の性別
送信者 クラブのジャック_スチール |
最近映画にも性別があるような気がして仕方がないです。
特に作っている映画は育てているのは男の子か女の子かと自問してたり。
まま物を男女に分けて呼ぶ言語も多いので、よくある感覚なんでしょう。
で
男性だと思う映画を作っていると作業のお供はコーヒーです。紅茶なんてやわいもの飲んじゃいられません。パンチ重視。
女性だと思う映画を作っているとこれが紅茶になってしまいます。コーヒーはきつすぎる。この微妙な味こそ美味しい。
まあ、何か文化というか思考や感じ方の枠なんでしょうねぇ。
がここのところ男の子映画と女の子映画の制作を同時進行中です。
どっちの作業しているかによって、コーヒーと紅茶がかわりばんこです。
同じ味なのだけれど、その受け取り方は180度ちがいます。
そのうち老人の映画と自分で思ったら、緑茶になったりして(^▽^)/
写真は男の子映画のほうの「クラブのジャック ~やすらぎの銃弾」から
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