2003/09/14

「眠れぬ夜のために」(どんな映画だったんだか見逃したなぁ)

なんだか眠れないので、書きます。

この前、深夜にある監督と長電話しました。
その監督いわく「映画作ってて本当に狙っている事を口にだしてしまうと、なんかエネルギーが減ると言うか、表現の意欲が減ると言うか...。現場でも本当に狙っている事はあんまり言いたくない」というような事をおっしゃいました。
うむうむ、よーくゥ解ります。私も全く同じ。

ここから、なんでそんな事が起こるのか考えてみます。
言葉にするというのは、言葉のワクにはめて表現してしまう事なんで、表現したいというおのれの欲望は一部満足してしまう訳で。
しかも下手に言葉にすると、映画のワクの内で狙っている事が、言葉というワクの内で表現した事で変質してしまって、つまんないモノに腐ってしまう事もある訳で。
かなり危険を感じる場面もたびたびある。

ふみぃ、人間ってすべてを物語としてしか理解出来ない存在かもしれず...。少なくとも全ての事について意味を見出さないと認識することもおぼつかないという事ではある訳で。
物語は当然なんらかの媒体・メディア・言語の上だけで成り立っているわな。
(ま、映像言語だのというなんか解ったような解らんような言葉もきっとそのあたりの事情で使わざるをえないんだろうし)
で腐るつーのは、媒体を変えると同じ物語でもマイナスに変わってしまう事があるのさ。

さて何が変えるのかというと、
表現されるモノは往々にして物語や意味を通してその奥にある物語化・意味化される前のそのままの何かであることも多く。芸事っていうのはそこにあるはずのそのままの何かを伝えようとするモノかもしらん。それを感じさせるためにある媒体の上での物語を組むという、矛盾した複雑なちょいと微妙なバランスの上で成り立つよう技。
当然媒体が変わってしまったら、同じ物語でも一瞬にしてバランスが崩れる事も多々ある。
まあタマにはバランスが取れて良い感じになる事もあるけれど、それは慎重にやんないとねぇ。一か鉢かのキャンブルする気には私はならん。

表現しようとする方もする方で人間だから一度あるものをある物語や意味で表現してしまうと、なかなかまた元の物語化する前・意味化する前のそこにあるはずの何かそのままを感じる事が難しくなっちまうワケだ。...私ゃどうしてもひきずられる(まそういう性質が人一倍強いだけかもしれん)。
つまり最初に表現する時はかなり慎重に媒体や意味を組み立てたいのさ。それが、そこにあるそのままのそれがちゃんと感じられる時ほどね。

意味や物語や幻想から自由になるためにそれらを使うのだ!

ちょいとかっこいいかなぁ。
むう、自分でかっこいいつもりのモノは後でカッコ悪い事がわかる事が往々にしてありおりはべりそうらえり...。

そういやタルコフスキーの「ストーカー」の主人公のセリフに
「音楽を考えてみてください。音の一つ一つには何の意味も無い。何の価値も無い。でもそれが繋がると、人に涙を流させ、人に笑顔を浮かばせ、感動させるのです。あれは...」と云うような(うろ覚え...トリ頭でごめん)セリフがあったなぁ。

「何ゆうとんじゃ泥亀!」という愛情溢るる突込みはまた自分ですることにして、そろそろ寝ます。
おやすみ。






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