2009/10/16

Re:絶対的/相対的(10/16)




晩ご飯の買い物の帰り道、エコバックをぶら下げて、ふと浮かんだこと。





絶対的な赤なんてものは現実には存在しない。


そこには赤らしきものがあるだけ。





たとえ人工的に単一周波数のレーザーで赤色光を作り出しても、


その上には何を赤色と定義するのかということが待っている。


もちろんそのまた上に伝達とか認識とかクオリアとかコモンセンスとか情報伝達だとか、もう果てしなく色々なものをクリアしないと「これが赤そのものである」とは言えないんじゃなかろうか。





だから例えば前からやってくるあの車にしても、


それを「あの車」という言葉で表したら、それはあの車らしきものを指し示しているだけ。


どんなに表現を凝らそうと、けしてあの車を過不足無く表現する事は出来ない。


どうしてもボケる。





そう思うと、じつは全ての言葉や表現されたものはそれらしきものを指し示しているだけ。


��もっと言えば、私たちの認識自体がそうなんだろうけれど)





だからふと思う、言葉に振り回されるなと。


表現されたものに振り回されるなと。


必ずその情報には抜け落ちたもの追加されているもの、ボケやノイズがあるのだから。


精度を保つためには、その情報からさらに元の情報を復元しようとする処理が必要なんだと。


ちゃんとエラー処理を考えてないと、ちょっとした意味のボケからとんでもなく変な出力になって、


それは言葉や表現の上では結構説得力あるけれど現実とはかけ離れたものになることも見聞きする。





まあま、それを遊ぶのが芸術なんてものでもあるんだろうね。





これ、イデアという話よりは情報処理系の限界についての話だろうと思います。


物理的限界はあるからねぇ。この世は物で出来ているのだから。


情報は何らかのメディアの上で存在する。物なしに情報のみってのは面白い考えだけれどね。ああ「順列都市」の塵理論も一応塵が必要なんだもの(〃^∇^)/






トリュフォーの映画は私には謎めいています。


「突然炎のごとく」は最初映画館で山のような???はてなマーク。


数ヶ月経ってからあの映画に恋をしてしまった事に気づいて、


でももう見直すのはしんどくて。


私には小悪魔を描いた映画でもあり映画自体が小悪魔でもあり。





若い頃観て同じようにはてなマークが山のようになって大嫌いだった「東京物語」ももう一度観直してみようかな。案外好きになるのかも。





あの頃はなんか色んな事を急ぎすぎてたような気もする今日この頃です。



「懲りないことが映画監督であるための十分条件である」とは誰の言葉だったか。


確かにそれだけで十分だ。それですべての必要なものはぜんぶ満たす。







順列都市(上)



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2 件のコメント:

やまちゃん さんのコメント...

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ふむふむ。こんにちは。
何かを「赤」と認識する自分がいて、
それでかりそめにも生きていく自己が成り立って
いるような気がします。
それは相対的に生きるということ。
絶対的な生っていうのは、相手、事物を選ばないこと。
そんなふうに生きるのは難しいけれど、わたしは
絶対的に生きていきたいなぁと思います。
人のことばに耳を傾けながら・・・ボソ。

竜屯 さんのコメント...

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やまちゃんさん、コメント嬉しいです。(^▽^)/
そうか。そうですね。選択は意味をなくしていくのかもしれませんね。
そしてその絶対的ないきかたは孤独なんだと思ってます。
突き詰めていけば自分自身からさえ切り離される可能性も想像出来てしまいます。またやまちゃんが言われるように全てを選ばないということも。
そこまでしても、それもまた絶対的という方向を示すことでしかないというやりきれなさ。それを見据えていないと絶対性が手からこぼれ落ちていく過酷さも。
でもそこからしか何かに触れることは出来ないのでしょう。何かを取り出せる場所。
その他の立ち位置では、ないもかも情報の加工ってことになってしまうのでしょうから。
なんだかその孤独を思うと、ちょっと前に見たビクトルエリセの「ミツバチのささやき」の主人公の少女を思い出してしまいます。
あの子の孤独はそういうことだよなぁと、やまちゃんのコメント読ませていただいて気がつきました。
ありがとうございます(^▽^)/
��ふむふむ。こんにちは。
��
��何かを「赤」と認識する自分がいて、
��それでかりそめにも生きていく自己が成り立って
��いるような気がします。
��それは相対的に生きるということ。
��絶対的な生っていうのは、相手、事物を選ばないこと。
��そんなふうに生きるのは難しいけれど、わたしは
��絶対的に生きていきたいなぁと思います。
��
��人のことばに耳を傾けながら・・・ボソ。