2010/02/21

「シャイニング」と「エミルタージュ幻想」

昨日に引き続いてまた映画のうだ話を。





「エルミタージュ幻想」(アレクサンドル・ソクーロフ監督2002年 Google 検索)という映画があります。


今日ふと、あれを「シャイニング」(スタンリー・キューブリック監督1980年 Google 検索)との二本立てで観たら面白いかもと思いつきました。





「シャイニング」が一本目で、あのラストシーンに続いて、「エルミタージュ幻想」が始まるのです。


まあ幼稚な悪戯のような事ですが。





幽霊話。人であって人でないものたちの世界。死んだ人々の生命。…幽玄に向かう。


そんな二本立てになりそうかも。


とっぴかもしれませんがあの二本はあんがい底で通じている気もするのです。





映画の「シャイニング」は原作のスティーブン・キングが怒りました。後年自分で脚本書いてミニTVシリーズ(シャイニング (テレビシリーズ) - Wikipedia)作って映像化やり直したりしてた。


TV版は映画版よりも小説版の方向で描いてました。特にラストは小説版よりもさらに映画版の逆方向ってことを目指してた気がします。


映画版もTV版も原作を真ん中に両極端でバランスしてるような。キューブリックの映画版のラストが無かったら、TV版のラストも無かったろうなぁと。





キングの怒りは映画版が「輝き」について無視して「悪」や「ホラー」のみの映画になったからとも言われてます。


私は勝手に、


キングがシャイニングの「悪」を造形するときに「父であることのコンプレックス」「息子へのコンプレックス」を使った。それはキングにとっては自分のハラワタから血まみれで取り出したような切実な問題でもあって、まだ若い父のキングにはかなり痛みを伴う作業だった。


でそんな風に痛みと共に造型した”私”の分身のような悪なのに、まったく情に流されないタイプのキューブリックは映画のラストでなんと


「まあそういうのもそっち側からみたら案外楽しい世界かもよ」


と簡単に肯定しちまった。


それでキングの深い怒りを誘ってしまったんだろうなと。


キューブリックにしたら話の一番気に入ってる部分を素直に多面的に魅力いっぱいに表現したのに、何で地雷を踏んだ事になるのか意味不明だったりもしてたり。


キングはわざわざ無神論者であると宣言してる人なのかもしれません。つまり神の不在や存在や善や悪に拘る。


対するキューブリックも無神論者だろうけれど、「神ってなに?オイシイのかな?」っていう最初っからの無神論者かも。べつに居たら居たで面白い。どんなんだか観てやろうぐらいな。善も悪も絶対の価値ではなく、指標にすぎない。


そりゃぶつかったら拘った方が血管切れそうになるわなぁと。


そんな勝手な想像を楽しんでます。





であの映画「シャイニング」のラスト、魑魅魍魎の世界がとっても魅力的にも映るラスト。


あれから「エルミタージュ幻想」の中世から現代に向かって数百年分のワンカットの旅が始まる二本立て。魑魅魍魎の旅。





「エミルタージュ幻想」で現代の美術館の部屋で監督の本物の知人をキュースチン伯爵が紹介するシーン。あれが興味深い。もういいシーンは続出な映画ですがあのシーンは…。


昼間の太陽の下で幽霊たちが歩き回っているような感覚。


実は旅をしてきた私たちこそ幽霊側であることがハッキリするシーン。


幽霊側から描いた幽霊話。


そして私たちは、またこの現代から現実から生きている人の世界から離れて旅を続けなければならない。


生死が反転した世界。





そしておしまいはあの海…。美術館の外にあった海。箱舟を包んでいた海。別の世界のさらにまた外側。そこに向かって行く。





そういう二本立て。すこしだけの悪戯。





まあ、ちょっと思うところがあってここんとろネットの怪談話や幽霊談を読みふけっているので、そんな事を思いつきました。



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