2010/02/08

Re:見えるものと見えざるもの(M・メルロ・ポンティ)(02/08)




今日はケアレスミスの山。


うう日記に数時間かかってる…。


数時間かかって書いた記事をミスって消した…。


もうね。


時間切れだから駆け足で。





今日も朝からドタバタ。


が気力失くして、歩いてて道端で立ちすくみそうになる。


いろんな決定をすることが非常に難しい日。


こういう日には人間はコントロール幻想はじめいろんな希望や幻想や妄想に支えられて生きているのを実感する。





昨日のアルコールか、今日の血液検査の為の絶食が引き金か。


うーん







私の見ているもの見えないもの。


他人のそれはまた異なる。


すれ違う。


少数派の一人づつ。だがそれは案外大勢いる。


その違いによる困難は重要な意味をもつ。


それは見えないものがあるという事を教えてくれる。





見えるものと見えないもの。


人による違い。


そして見えないが存在するものの重要さ。





見えないものの重要さ。


私の映画はそうしたい。


そのためのメソード演技。


そのための撮影技法。





世阿弥の『風姿花伝』はそこをもう一歩進めてあえて隠すことにまで到達していた。


見えるものをあえて見えないものにしてしまうまで。





微妙なものが重要になる表現では、


表現しようとする結果の操作より、その仕組みへの操作がキモになる。


型のみや表現された結果のみに陥るとその微妙なニュアンスを逃してしまう。





本質はその微妙なもの、見え隠れするもの。意識して見えないものの中にある。





もちろんCGも今その方向を模索しているし、


映画がCGのみにならないのもそのため。





泣き方を伝えるのではない、


伝えるべきは実感させるべきは想わせるべきは悲しいということ。





そのために、あえて遠回りする必要性。


割り切らないこと。


切り捨てないこと。





それこそが私がやりたい映画なんだ。


そのためにいままでがあった、今ここに居る。





現状に留まり表現の結果だけに陥ると世界を生きる場所を失う。





見える神々と同じく見えざる神々にも祈ろう。


”いまだ生まれぬ国々において、いまだ知られざる国語によって”祈られることも想像しよう。


それらこそが私たちの世界になってゆくのだから。












以下、今日のa_qu_a on Twitterから@a_qu_a - Twilogを使って引用してます。

心がヒリヒリする日。気を緩めたらヤバイな。とりあえず次の目的地に一 歩づつ http://twitpic.com/1213km





15:58:48


私が見ているもの見えていないもの。


他人が見ているものに違いがありすぎる気がする。目に見えないから分かりにくい。


16:21:13


他人との違いによく直面してる人は、そのぶん話してて違う事が前提な気がする。有難い。


16:27:13


と言いつつ、電車乗り間違えた(;>_<;)


16:28:39


さて帰ろうか。 http://twitpic.com/1219cf





16:58:16


が、人が多い。壁が緩んでる。気持ちわる。人込み。携帯に集中


17:02:44


脱出!ほっ(〃´o`)=3


17:05:55


さて、今日の晩御飯は何作ろうかな http://twitpic.com/121ab6





17:08:40











2 件のコメント:

やまちゃん さんのコメント...

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こんにちは。ryu-tonさんの言わんとされてることすっごくわかる!映画に言うと「フレームの外へ」ということでしょうか。間違ってたらごめんなさい。わたしの卒論はM・メルロ=ポンティの「知覚の現象学」&溝口健二でした。わたしは世界に内包されていて、それに意識的でありたいとわたしも日々おもっています。『彼女について私が知っている二、三の事柄』がまさにそういう映画ですよね。今卒論をぱらぱら読みかえすと、稚拙極まりないけれど、そして青すぎるけれど、今も変わらず同じことおもってるなぁと23歳の自分を少しほめてやりました。抜粋でよければメルロ=ポンティの重要箇所、持って今度のミーティング参戦しましょか?

竜屯 さんのコメント...

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やまちゃんさん
おお!そうなんだ。
「フレームの外へ」っていうのが光学や認識でマスキングするって事でもあるのなら、そういう意味です。
そしてそれは写っている物の向こう側やカメラのこちら側のZ軸方向にもあらわれます。撮影現場ではその前後方向がより面白い。上下左右方向は撮影者は動きが少なくても済むのですが、Z軸方向に隠れる物を扱うには撮影者とカメラは動き回る事になります。レンズはZ軸方向付いているわけで、カメラはダンスをしなくちゃいけなくなる。そこには面白い問題が。観るときには逆にフレームの内外X-Y軸方向の断ち切りが目立つのですが…。
もちろん光学的な意味ではなく認識としての「見えるものと見えざるもの」の意味でもありますし、演劇方向としておもえば形か心情か身体か記号かって事にもなっていきます。たぶんそれが視覚として現れるのが映画の表現としてのポイントなのでしょうね。
私の好みは(XY軸や内外の方向ではなく)Z軸や奥行き方向や覆いに出し消しすることなのです。コメント読まさせて頂いて、その意味もちょっと考えてみたくなりました。
ゴダールさんの映画を観てるとそういう事を使いこなしてる感じを受けます。有限な仮想である映画を使ってそれより大きなものを伝える事。
欠けているものや認識の限界を想うことは、かなり役に立つ思考なのかもしれません。その限界を意識することでそれを越えたものを取り扱うことが出来ますもの。
さらに内からは世界一部しか認識出来ないことを意識していないと、世界以外、世界の外側を想像も出来ないとも。
23歳のやまちゃんすごいなぁ、うーん私その頃ぜんぜん言葉に出来てませんでした。
無学者で、M・メルロ・ポンティも「見えるものと見えざるもの」も知りませんでした。今ググってみたら、なるほど!です。
ぜひぜひ御教授いただければ、ありがたいです。(〃^∇^)/