そこに意味も価値も必要じゃない。
私がここにいたいかどうかだけ。
空間の映画だと思った。
最初の、主人公がバス停に座ってメモを書いている辺りから、不思議な違和感。カットの多さとイマジナリーラインの複雑な処理。途中で何度か出てくる鏡や窓やテレビを使った虚像でどんどん空間が複雑になってゆく。
それはいつの間にか誰かを 見ている という一方向ではなく、 それを見ている側の誰か もその空間に確実にいることが無意識に刷り込まれていく。
ラストで見てようやくその戦術の意味に気づいた。
ラストのスタジアム。何故か大きな部屋に見えた。
客席から見た舞台でも、舞台から見た客席でもない。
対等な対話の場としての会場。そこで交わされる、呼び掛けと応答。それが拡大して世界巻き込むイメージ。
あのスタンドランプの点滅だって、呼び掛けと応答だった。
ラストのコンサートシーンに向けて仕組まれていたように思う。
あの不思議なカメラ配置と編集はそのためだったのかと。
良い映画でした(^-^)
この世界は私が知らない一人一人の汗と血と涙で出来ている。
だから私達にはその贈り物を受け取る義務がある。
あなたにはそれを受け取る価値がある。
いつだって私も貴方も他の人の幸せを作る栄光を選ぶことも出来る。
私達は祝福されている。
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最近、何回か二十歳の頃の私が、頭脳土方として徹夜で作っていたソフトウェアが東大に納入された話をした。
あの夜以来、私の目の前に現れる人工物には感謝するのがデフォルトです。そして何かを作ることの神聖さも(^-^)/
話題になってたから一度観なきゃと思って何年も。でもあのビジュアルが。ためらっていたわけです。
勉強しなきゃと、とりあえず一話30分。とんでもなくアートな作品でした。シュールレアリスム爆発してる。
徹夜してイッキ観。
一例を挙げれば、
OP含めてキャラクターが右から左にしか移動しないのに気づいた。だからEDでまどからしきシルエットが唯一右に進むのに刮目、他の止まっている少女達を追い越して、でもその先には…。うわぁ!!!でした。
心理学的には左側は過去、死の方向。右側は未来、生きる方向。
ひとは過去を思い出すとき眼球は左側を向く。未来を作るとき右側をみる。死んだ恋人オフィーリアを描いた絵はほぼすべて河を左側に流れてゆく。
EDで暗示されている希望の先にある悲劇。本編ですべてが加工の静的な死の世界に進んでゆく不安感。
そんな数々の仕掛けに満ちた作品でした。
結局このアニメは現代の私達の生き方の話だった。
現代社会へののっぴきならない告発、批判。社会派な作品。
生産効率が上がってしまえば、私達の活動はどんどんと生きるためからより良く生きるためになる。
ニートも引きこもりも出生率の低下も、実はそんな単純なこと。
生きてゆくのかのが楽になってきた時にでてくる副作用。
そんな社会の中でよりよく生きようとすれば、みんな魔法少女的な何かを目指すしかなくなる。
豊かな世界でも、みんなに喜んでもらえる人間に。
でも、
そこにはインキュベータきゆうべえのような、それを利用してアンフェアな不当な利益を得ようとする奴等も群がって来るわけで。(インキュベータって私の耳にはずっとインキュバス:男性形夢魔と聞こえて仕方なかった(^^))
この社会で良い人として生きようとする全ての人に待ち受けている悪夢の話。
(だからまどかの描いた他人に見せられない魔法少女の絵が切なくて切なくて。ちと泣きそうに。これが恥ずかしい夢になるこ文明の方が間違っているだろうと悔しくて)
どうすれば夢を餌にする悪人と戦うのかの話。
ちとアメリカンニューシネマの「ラストカーボーイ」を思い出したりしました。(とはいえ観なきゃリストに入りっぱなしで未だ観てないけれど)
この作品まどか☆マギカの中では最後はインキュベータにも勝利するのだけれど、
でも、
私にはそれは説得力なかった。
最後のまどかの方法は、現実には出来ない。
現実のインキュベータはそんなに優しくは無い。そんなに弱くは無い。
作者は絶望を隠したのかも。
しかし、私はそこに有効な手はあると思う。
フリーソフトウェアファウンデーションは上手くいった。オープンソースも、コモンセンスライセンスも、共産主義対資本主義の馬鹿馬鹿しい思想対立を見事に迂回して幸福を目指しているように思える。
「まどか☆マギカ」よありがとう。
うん、この先やってみるよ。
たぶんそう思ったのは私だけじゃない。
ヌーベルバーグもアメリカンニューシネマもその後のことども私達は覚えている。
怒りも無垢も愛もそれだけでは勝てないことも学んでいる。
実は巧幻想や仮想の価値観と巧妙に戦う方法も有ることに気づいている。
二時間の映画が一年で作れるなら、十分の映画は1ヶ月で出来るかというと、そうはいかない。
二時間だろうが10分だろうがその世界を発見して住みはじめるには同じような時間が必要だし、主要なキャラクターを知るためには、同じように深い所に降りていかなきゃいけない。
一時間の映画の撮影が1日で終わる時もあるし、2分の映画に10年掛かることもある。
この辺知らない人に見積り出されるとちと説明が大変になる。
まあ、製品だと考えて、開発時間や作品作りの世界との対決など無視して進めてゆくのもありだとは思うけれど、
それはいつか行き詰まる。
いづれにしても誰かが…何かが考えて壁を壊す必要はあるのだから。
実は楽な道はない。楽そうに見える道は、私達の社会の中でしか流通しない。
私達はむき出しのこの世界に居ることは変わらない。文明を厚くして社会の中で幾重にも守られていようとも。
私達の仕事を嘲笑う人もいるだろう。
ささやかすぎる仕事。
でもその人のためも含めて、私達はその仕事に誇りを見いだしている。
シナリオ執筆中、ダイブ、ダイブ、ダイブ!!!
もう一度闘う勇気を!!!
最近どうも、心が揺れる。 芯がぶれる。 ここ数年は芯がぶれなかったなぁ。 優柔不断はいつもだけれど、それは情報を待つことが出来るってことなら、目的は全くぶれてない。 うーん、心が弱っているかも。 いやあの件は案外と先方の交渉術の可能性もあるかも。だとすると面倒な事だなぁ。 |
とはいえ、物語作りに苦労していない人でも、あのラストの語り方を考えはじめると、語るということの一環は感じられる。
さすがヒッチコック御大。生きざまかけた聖なる馬鹿話だなぁ。
一見馬鹿馬鹿しいアイデアは実は凄いアイデア。一見まともなアイデアは物語の中では魔法の輝きをもてない。
物語は現実と違う。
でも輝かしい嘘は実は真実なんだ。
いつも現実からは見捨てられてしまう私達の真実。
だから私達は物語を面白いと感じる。私達は物語を必要としている。
それもまた物語を書くコツ。分かってしまえば誰にでも出来る簡単なこと。
でも自転車に乗れるようになるぐらい難しいこと。
教えることは実は教える側の勉強になるなぁとこの数年実感してます(^^)
抽象化された意味を刻々と見いだし、判断を下す。
早く早くと。
何も考えなくて済むから。効率的だ。
私達は仮想化された世界で生きている。理性を持った時から。現実をどう解釈するかの世界で。
だが、生のデータ、いやその前のセンシングされる前のカオスの在り方とあまりに解離すると、私達は復讐される。
どうか立ち止まって、
一度すべての既成の解釈を離れて、
解釈をそれぞれなりにもう一度生まれた赤ん坊のように組み立てなおして、
そうして、また生き返る。
たぶん芸事にはそんな意味がある。
昨日の夢。
悩みを抱えた私は、あるクラブへお話をうかがったり、本を調べたりして数日通う。
ある日代表的な役割をしておられる方から
「搾取している」と諫言されて、はっと気付く。
私は自分の悩みにかまけてこのクラブに何が出来るかを一つも考えてなかった。
続いてもう一つの夢をみた。
宇宙から巨大な資源を狙って侵略者がやってくる。
攻撃船なのか、そのまま生き物なのかの巨体は黒い紡錘形に赤い二つの大きな目のように見える模様。ヒレの無いシャチのようだった。
それがたくさんの少し小型な個体の群れを率いている。
大変な被害を出しつつなんとか撃退する。
何十年かのち、また彼らがやってくる。
その群れを見ながら、使い古した武器を身につけて、震えている夢。
あー、そういやオブリビオンみたなぁ。劇場で映画観ると出たら気分が変わるけれど、家で観ると気分をリセットがない難しい(^^)
たぶん搾取者つながりだな(((^^;)
テレビでやってる。久々に観たら泣けてしかたない。
今の心に突き刺さる。
世界から社会から魂の自由を守ろうと誰かを愛そうと悪魔と契約する話。
オーウェルの「1984」と同じ種類のデストピア。この中で希望のためのインモラル。悪魔とされるものに救われる魂の話。だけれどビッグブラザーは本当に正義かもしれないんだ。
だが彼と彼女は勝つ。ルパンがクラリスと逃げだして新しい家族を作るには長い時間が必要だったなあ。
宮崎駿、このあたりからはっきりとダメな奴とか悪人のままで良いんだとなってきたんだよなぁ。
この映画の不思議な爽やかさはそこかも。
己と相手の不純を認めた二人だからこそある意味で幸せなラスト。
それはたぶん作者が自分を許す過程。
ポニョまでゆくと私には辛すぎる。
悪人正機。その悟りの境地までたどり着けるかなぁ。
AIについて。「魔法世界」作るとき死ぬほど考えたけれど、たぶんあと1~2回はブームと肩透かしが来るんじゃないかと思っている。
人類にとってはそれは愛とどう向き合うかという事に落ち着く。
さて私達は愛することにどれぐらい本気になれるのか。
愛を求めて、もしも本当に愛されたときそれを受け入れるだけの成熟があるのか。
それはまだしばらくは先になりそうだ。
なので、たぶんAIの開発には無意識の、集合意識の忖度、ブレーキがかかっている。
私達という種族が生き残れるかどうかはたぶんそこにかかっている。
タルコフスキー監督の「ストーカー」の台詞
イバラの冠を見つけて被った作家がストーカーに言う「そうだったか、詩の朗読やら遠回りやら、すべて許しを乞う形式だったんだな。同情は出来る。だがいい気になるな。俺は許さんぞ」
今のわたしにはヒリヒリする台詞。
朝起きたら落ち込んでた。
自分自身への攻撃性で心が痛い。
いろいろと迷惑かけている確信が手でさわれるよう。
でもその思いは実は自分への攻撃で、それこそが破滅へ続く自己中心な甘えなのは、もうとうに気づいてたはずなのに。
一喜一憂の日々。
ここ数年ずっと嬉しいことが連続してて。
それが私の弱さに跳ね返って、不安を生み出して、私が望む事から私を遠ざけようと働いて。
幸福でいられる強さと愛を。
今日は静かに己が心と付き合います。
さて、この記事で私は何回私や自分や己と書いたのだろう(((^^;)